「生きる」土俵から降りられない

 

 自分に固有の何か。

 自分の目の前に現れた何か。

 闘わなければいけない何か。

 逃げたい何か。

 ただそこにいる何か。

 好きで好きでたまらない何か。

 

 あるんじゃないですか? 皆さん。

 

 

 なんでもいいんです、バイトだろうが恋愛だろうがマスかきだろうが、なんでも。

 

 でも、そんな「自分を自分たらしめる」こいつらを見つけた瞬間に、僕たちは「生きる」ことから降りられなくなってしまう。土俵に乗った覚えはないのに、気がついたら土俵の上。なんなら俎上。鉄板の上ではないと信じたい、くらいの感じ。

 

 世界に一人だけの存在になりたい、ナンバーワンよりオンリーワンだ、とか切望しておきながら、いざそうなってしまったら、もう降参はできないんですよね。代わりがいないから。まあ解散は出来るかもしれませんけど。いちぬけした森くん、先見の明アリアリ。

 

 降りられないなら、楽しむしかないですよね。

 今まで生きてきたという事実は、俎上にいるという事実は、残念ながら、そして幸いにも、確かにここにあるんですから。これを否定できない私たちは、生きざるを得ない。邪悪なものが寄ってきたら、握りしめた塩を撒けばいい。包丁なんて白刃どりすればいい。焦げた足は、洗いましょう。足を洗ってリスタート。黒焦げ皮膚を、水に流す。

 

 そんな水よろしく、運命というものはリキッドタイプ。いつでもチャプチャプ耳障り。二度と同じ顔を見せてくれない。そのくせ、きちんと沸点がある。凝固点がある。ちゃらんぽらんな流動体ごときの求めるコンマ何度の正確さが、たまらなく理不尽だなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頑張れあたし、明日はいい日だ。

もはやギャグ

 

 コートを初売りでめっちゃ安く買えました、ヨシモトです。

 

“LGBTばかりになったら国はつぶれる”|日テレNEWS24

 

 いやギャグでしょ。冗談はヨシモトさん。

 結局平沢氏が言いたいのも、かつて杉田氏の発言にあった(国家にとっての)「生産性」がないっていう、要は「LGBTQ+が増えたら子供できないし国が滅ぶよ!」みたいなことなのだろう。

 

 生産性云々の話は杉田氏の時にもう出尽くしたわな。そもそも原義的に考えると、「働きにくい」と考え労働を忌避していた層が働けるようになれば生産性は上がる。んで、子孫繁栄的な「生産性」でいえば、論理の流れがわからない。そうですね、一部子供は作らないかもしれませんね、でも子供を作らないヘテロセクシュアルの人々と苦しみ方は同じですか?(もちろん、両者ともに苦しみを抱えている可能性は十分にあります)って話。

 

 つーか「LGBTQ+が増える」と社会制度になんの関係が。例えば性的指向に関して言えば、私が急に「男性のことも性的に愛せ!」と言われても難しいように(自分はクエスチョニングではあるんですけど)、自分の意思で容易に変えられるものではないわけで。だからこそ、「黙らされてきた」マイノリティの歴史があるわけで。性自認だって、社会に依拠して決まるわけではないし、「身体的性とは異なるな」という自覚があること自体を黙らされてきた(もしくは「異ならない」と言い聞かされてきた)。

 

 だからこそ、今苦しんでいる人たちがいて、その人たちをふくめ、一人一人が自分らしく生きられる社会を実現したい。「黙らせる」ことのない社会にしたい。そのためには、今のままだと黙らざるを得ない人々に何か不都合が生じないよう社会制度などを整えていきましょうって話で。……あ、ヘイトスピーチとかは別の議論ですよ。自己表現と、誰かを傷つける行為を同一視するべきではないと思っているので。

 

 話戻します。「セクシュアリティによって苦しむ人がいない世界」の実現を突き詰めると、性別という概念そのものを取っ払おう、っていう方向に行くんじゃないですかね。

 でもここは非常に慎重になる必要があって。というのも、性自認が身体的性と異なる人々の中には、「男/女らしさ」みたいなものを望む傾向もあるわけです。構築主義的には確かに「その性らしさ」みたいなものは人工的と言えるかもしれませんが、かといって、「男/女らしさ」の存在自体を悪としてしまえば、今苦しむ人々の苦しみを軽視している、とも捉えられかねない。

 

  とはいえ私は、そういった苦しみ自体も「性別」という概念が存在したからであり、「もしなかったら……」という仮定を既に「ある」世界で行なっている時点で、きわめてナンセンスだと思っています。それゆえに私はクエスチョニングを自認しています。喋る時の一人称は「僕」ですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸糞悪いからAVみてさっさと寝よう。

 

2019年になったので。

 

 なんとなく再開します。備忘録。

 就職活動のことだったり、最近やってるライターの仕事に関してだったり、ふれたことばだったり……とにかく、つらつら書いていきます。ブログってオナニー見てもらえる感じで気持ちいいですね。あ、今オナニーって打とうとしたら予測変換にアナニーって出たんですけど、まだ未開発ですよ。

 

 先日、高校文芸部の同期と鍋をつつきました。そこでいわゆる「エモい」気分になったので、昔書いた文章を読んでみたところ、自分の根本が変わってなさすぎて笑えてしまいました。わろてまうわ。ガッハッハ。

 そもそも、齢二十にして今さら根本が変わる人間なんて、そんなにいないと思いますけど。東大文芸部に行った彼も、慶應のお笑いサークルで幹事長を務めた彼も、変わったようには見えませんでしたしね。年を越す時に会った研究者を目指す彼だって、演劇をやりながら人生迷子になっていた彼だって……

 

 言うとりますけども。

 

 高校1年生の頃から変わらず、私の好きな芸人はバナナマンだし、好きなラジオ番組は金曜JUNK バナナマンバナナムーンGOLD、好きなバンドはクリープハイプ、好きな曲はおやすみ泣き声、さよなら歌姫。好きな漫画家は浅野いにおだし、好きな漫画はうみべの女の子。結局、変わらないんですよね。

 

 あー、強いていうなら、好きな作家が大崎善生から吉行淳之介になりましたね。

 というわけで私は、2019年1冊目の本に『すれすれ』を選びました。『夜と霧』の2週目と迷いましたが。後者に関しては、教え子の小学生に「座右の書」を尋ねられた時にパッと浮かんだってだけなんですよね。

 今年はもっと読書量増やしたいっすわ。なにぶん学がないもんで。

 

 胃腸炎の時にふと思ったんですよね。今の自分は『眠り』の主人公みたいだなって。ハルキストどころかハルキゲニアもびっくりの知能ですけど、まあいっちょまえに。つーかチョコレートすら囓ることができませんでしたけどね、胃腸炎飲むヨーグルトがマブダチでした。人には人の乳酸菌。蒼井優

 

 「今の自分があの作品のアイツに似てる」ってなったら、もう少し人生が楽しい気がしますね。まだまだ、インプット。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三日坊主は根本。というわけで、変わるわけはありません。三寒四温よろしく、書いては休んでを繰り返していきたいと思います。今年もよろしくお願いします。

草間彌生

 

 ポケモンは楽しいけど、技が外れる瞬間、あれだけは未だに許せない。小学生の頃から心の狭さは変わらないでおなじみ、ヨシモトです。

 

 最近、草間彌生展の車内広告をよく見かけますね。

 高校二年生の頃、授業で油画を描いていました。慣れない筆で、私がキャンパスにペタペタとやっている最中、美術の先生が「貴方は草間彌生とか好きそうよね」と、草間彌生の作品が載っている美術作品集を見せてくれました。

 私はその時、確かに、彼女のサイケデリックな色遣いに、魅了されました。しかし、今その感覚を思い出そうとしても、思い出せないのです。息を呑み、見つめた、あの感覚が、蘇ってこないのです。

 赤と白の水玉が、頭の中にはっきりと浮かび、弾けるでもなくじわじわと消えていくのは、ギュッと数秒瞼を閉じ、再び開けた時、光が僅かな痛みを伴って戻ってくる、それと似ている。あの感覚だけは、蘇ってくるというのに。

 

 草間彌生展、行こうかしら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高校生に戻りてぇ〜〜〜〜〜〜

マゾ

 

 例えばそれは、人からいただいた飲み物であったり。例えばそれは、イヤホンから聴こえる音楽であったり。

 体内に、自分ではない何かが流れ込む。快楽が私を襲う。

 異物が「入る」ことが気持ちいいのではない。「流れ込む」ことが、どうしようもなく、気持ちいいのだ。

 本には「入る」パターンと「流れ込む」パターンの二つが存在する。

 相容れないものは、私に「入って」くる。わかりよいものは、私に「流れ込んで」くる。

 

 身体の相性に似ているのだろうか。いや、違う。「入って」「流れ込む」この二つの動作が、一体になってしまうのは、私にとっては「違う」。

 マゾヒストは、「入る」感覚が好きなのだろうか。それとも、「流れ込む」感覚が好きなのだろうか。伴う異物感をも、快感に昇華してしまうとしたら、「マゾヒストになりたい」と思ってしまう。ここでいうマゾヒストとは、いわゆる俗なマゾというやつだ。

 

 とりあえず今は、本を読みたい。「入って」くる本はいらない。「流れ込んで」くる本をよこせ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たまには、フォーマットを崩してみたいのです。

ポケバンク解禁

 ポケバンク解禁に伴い、アカデミックな生活からますます遠ざかってしまいました、ヨシモトです。

 いや~~~~~~~~久々のブログ更新がこれですよ。冗談がキツマンですね。今回は本当にポケモンの話ばかりです。興味ない方は「こいつやっぱり限界大学生だなぁ」とか思っておいておくれやす。

 

 ポケバンク解禁に伴い、S1から環境が大きく変動しました。しかし、正確に言えば、「過去作の環境に戻った」といった印象。私はS1の期間あまり潜れなかったのですが、それでもわかります。なんやねん、と。結局旧ポケモンばっかか、と。

 でも、せっかく環境が変わるのなら、その変化に乗っかりたい気持ちもわかります。私はとりあえず、Hが20上がりはねやすめを授かったマンタインを育てました。いやあ、あの子は優秀ですね。Hに244振ることでH実数値191を実現(食べ残しを使うということを完全に失念しており、16n-1調整をしてしまいましたが)。

 おだやか@食べ残しでH244、B76、D172と努力値を振ることによって、食べ残し込みで無補正A252振りメガルカリオインファイト確3、無補正C4振りポリ2の十万確3というこのクレイジーっぷりよ。イメージとしては、ミロカロスと同じような使い方をすることができます。僕はミラーコートが遺伝技ということを忘れて一体育成し、ミラーコート搭載版でもう一体育てましたが、すぐにPTから外しました。

 

 というのも。いつも私はPTを「色のバランス」を基準に構築しているのですが、色の好みがコロコロ変わってしまうんですよ。私。今私の好きな色は紺とピンクなのですが、紺のポケモンが全然いないんですよ。マンタイン以外が、その基準、ハードルを越えてきてくれないのです。一体しか好きな色の基準を満たしてくれないのであれば、PTを本当に好きな色のポケモンだけで組むなんて無理ですよ!!!!!!!!畜生

 なので、普通に色のバランスに気を遣った、使いたいポケモン中心のPTを組んでみようと思います。緑色の(部分がある)ポケモンだけは使わない!というのが信条ですので、それだけは貫こうと思います。おそらく霰パ。こうご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポケモンだけして暮らしてぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

治外法権

 

 失踪したと思った? どうも、ヨシモトです。

 このブログのタイトル、「無知無恥大学生ヨシモトの備忘録」なんですよね。というわけで、普段考えていることを、メモしてみたり。

 

 普段の生活において、嘘をつくことは非難されます。知ったかぶりであったり、間違った知識の披露であったり、私利私欲のために嘘をつくことは、概して批判の対象になります。というか、なるように思えます。

 ですが、演劇(映画、ドラマ、etc...いわゆる「創作物」)において、それは否定されます。「舞台上にいる」という特殊な条件下に置かれている人間は、嘘をつくことが、客を騙すということが、むしろ是とされます。何故でしょうか?

 例えば、人を殺したとしましょう。批判されます、というか罪に問われます。ではそれが嘘だったとして。「人騒がせな!」と批判されます。では、演劇において人を殺したとしましょう。フィクション上の虚構だと分かっているからこそ、人々は楽しみます。仮に批判があるとして、それは内容や演技に対するものであり、嘘をついたという事実に対する批判はないでしょう。

 演劇という、治外法権。不思議不思議。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日常生活で、皆嘘ついてるのにねぇ。

 あ、ポケモン現役復帰しそうです。またレート2000行きたいナァ。