社会に出られない

 出たい社会には出られず、出たくない社会には出られることが確定しました、ヨシモトです。

 いや渋い。どうしてこうなった。まあ全然就活終わる兆しはないというか、終わらせたくないから終わらせてないよって話なんですけども。

 人の心を動かしたいし、世の中の苦しむ人を救いたいって偽善抜きで思っている一方、金も欲しいからNGOとかNPOだとちょっとな〜みたいな高望みをした結果がこれなんですよね。

 

 そういえば、「ボランティア」が凄まじく嫌いなんですよね。

ボランティアは「対価を受け取ってませんよ!100%自己犠牲のもと成り立っています!」感が強い、なんて意見もありますが、それ自体はあんま気にならなくて。

 ボランティアって結局コストがかかってるじゃないですか。なにかをするにはお金がかかる。これは仕方ないことです。

 にもかかわらず、対価を受け取らない……これってどこかで得た利益を充てているに過ぎなくて、単体で持続するシステムじゃないんですよ。そうなってくると、活動自体が持続的とはいえず、単発や数回で中途半端に終わる可能性も高い。なんというか、この構造がとても無責任に感じてしまうし、ともすれば自己満足で終わりかねないな、と。

 これは個人の心持ちどうこうではなく、営みの形態に対するモヤモヤなんですよね。ミクロな視点で見れば、ボランティアに携わりながら世界を変えるために働きかけている人はいるし、きっと大多数がそうだと思います。ただ、自分がこのシステムに組み込まれた時、自己満足のために他者を利用しているのでは?と自身に対して懐疑的になりすぎて、ウプッてなりそう。

 

 とか言いつつ、よくよく考えてみたら、自分が誰かのためになりたいって思い自体、自己満足なんすよね〜〜〜人のためになっている実感を得ることで、なけなしの自尊心をそれなりの自尊心に変えたいだけ。これを自覚して続ける就活は虚しすぎて悲しくなるばかりです。

 

 別にエンターテイナーになろうなんて気は毛頭なくて、ただ言葉を使って人を安心させるプロになりたい。文字でも、発言でも。そこのプロフェッショナルになれたらいいなぁ、でも出版業界行ったところで斜陽産業まじおっぱいだしなぁ……と思いながら、ある業界をフラフラしています。いつになったら終わるんだか。

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 就活は7月までがっつり続けることになりそうだな〜〜〜嫌だな〜〜〜〜〜

令和、内定はありません。

 令和も絶好調。ヨシモトです。

 ゼミ論を書いていたつもりが、セルフハンディキャッピングでしょうか、文章を書きたくなってしまいました。

 今回は〆のアレがありません。改行たくさんして最後に一言添えるやつ。ていうか「令和、内定ねーわ。」とかにしたほうがよかったな。

 

 

 私は閉じ込められている。

 どこに、と訊かれても答えるすべはなく、「どこかに」と答えること以外叶わない。暗く、床も見えず、壁も見えない。さらにいうと、自分の手も、足も、見えない。

 きっと、自分は体育座りをしている。固い床に座り、体育座りをしている。しかし、確認しようにも何も見えないのだから仕方ない。自分の体感を信じるしかないし、ここまで自分の知覚が心許ないとは考えたこともなかった。

 床は、コンクリートだろうか。冷たく、硬く、ざらざらとしているが、気泡の断面のようなものを指先に感じる。ミリ単位の段差を、今は信じてみる。

 どうしてここまで落ち着いていられるのだろう。

 見知らぬ場所、見知らぬ状況。にも関わらず、不思議と落ち着いている自分がいる。無駄な感覚が全て遮断されると、こういった感情になるのだろうか。

 自分の現状を知るためには自分の知覚を介する必要があるのだが、それが叶わないとなると、もはやどうしようもない。全くふさがっていないが、八方塞がりである。

 ここはどれくらい広い空間なのだろう。圧迫感は感じない。無限に広がっているようにも思えるし、実は体育館倉庫ぐらいの狭さかもしれない。光がまったくない以上、密室のはずだが、空気は澄んでいるのだろうか、じめじめしていなければ、乾燥しているわけでもなく、推理の材料は一切ない。

 匂いもない。音もない。触覚は、床に触れていることだけは確かである。

 尻と床の境だけが、触覚を通じて感じられる。自己の境界として唯一わかるのはそこまでで、考えてみるとこの空間でどこまでが自分なのかわからない。自分の像を想定することはできるのだが、ここにきた経緯がわからないとなると、その記憶すら疑わしい。

 「すら」と表現してみたが、五感のほとんどが機能していない中で何を信じていいのかわからない。「我考える、故に我あり」など所詮気休めにすぎず、物理的な自他の境界がわからない中で、果たしてどこまでが自分の意識が及んでいる範囲なのかわからないとなると、「我あり」と言うことすらままならない。

 ようやく不安が顔を出す。この状況はいつまで続くのだろう。

 空腹ではない。喉も渇いていない。しばらくは大丈夫そうだ。

 しばらくは、とは言いながら、私はいつからここにいるのかもわからない。仮に三日間ここにいたとしよう。その場合、何も摂取しないことは危険ではなかろうか。

 だが、現に私の身体に不都合は生じていない。ということは、問題はない。

 空腹、喉の渇き。これらも身体に基づいている。お腹が痛くなった時、ギュルリと鳴いた時、自分は空腹だと実感する。喉に違和感を覚えた時、クッと痛みを感じた時、水分を欲する。

 もしや、これらも思い込みだったのではなかろうか。「空腹とは〜」「喉の渇きとは〜」と定義されたものに自身の状況を当てはめているだけだったのではないだろうか。

 事実、私は自分の状況を判断できない。きわめてニュートラルな状況だからだ。

 思うことをやめよう。一度、私の電源を切ろう。

触れてきたことば

 

 次ブログを更新するのは、内定を確保してからにすると今決めました、ヨシモトです。

 

 こう見えて自分はことばが好きなので、最近触れたことばをぽわぽわ記録します。ほんとうに備忘録。

 

 正義だの善意だのを振りかざして「お前のために」と言いながら、他人の心とか身体とか時間とかお金とかあらゆるリソースを食い散らかす。友人だと思っていた人間が至近距離から刺してきて、自分を正当化する。構造的には水商売で起きることと何ら変わらないのに、現実はフィクションではなく現実であって、対価も支払われないうえに出口がない。(佐々木ののか氏のnoteより)

 

しかし、ほかにだれのところへも、どこへも行き場がなかったら! だって、どんな人間にしたって、せめてどこかへ行き場がなくちゃいけませんものな。なぜって、人間、いやでもどこかへ行かなくちゃならんときだってあるんですから!(ドストエフスキー罪と罰

 

遠い祖先の時代から長年にわたってサバイバルするために必要だった本能――差し迫った危険からとっさに逃れるための「瞬時に何かを判断する本能」、悪い予兆を聞き逃すまいとする「ドラマチックな物語を求める本能」――が、世界についてのねじれた見方を生んでいる。(中略)

良いか悪いか、正義か悪か、自国か他国か。世界を2つに分けるのはシンプルだし、直観に訴える力がある。これが「世界には分断が存在する」という考え方が根強く残っている理由である。そしてこうした考えが現在の世界の見方に、大きなバイアスをかけている。(しいたに氏による『FACTFULNESS』要約

 

良いは悪いで、悪いは良い。(シェイクスピアマクベス』)

 

 文字を摂取することをやめたら、自分が自分ではなくなっちゃいますからね。適量を楽しく摂取。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 就活は案外楽しい。

生きる理由は死ねない理由

 地獄の底からこんにちは、ヨシモトです。

 

 先日、「ヨシモトが生きる理由って何?」と尋ねられました。……あ。いや、いじめられてるわけではないです。単純に質問されただけです。

 

 結論から言うと、私には、「生きる理由」なんて高尚なものは存在しません。

 その代わり、「死ねない理由」があります。だから、生きています。死でない状態が生だからこそ、生きるという選択肢を選んでいる……と言えばよいでしょうか。

 

 死なない理由は二つ。

 一つ目は、勇気がないから。シンプルに、死ぬ勇気がない。多くの人は、そんな感じなのかなぁ、とぼんやり期待してます。……いや何を?わからないですけど。

 二つ目は、もっとはっきりしています。親への恩をまだ返していないから。シングルマザーですしね、なのに自分を私立の大学に通わせてくれて。感謝してもしきれません。でも親への恩ってどう返せばいいんですかね?……お金?長く生きること?わからないんですよね。でも、少なくとも「早く死ぬこと」で別に恩を返せるわけでないことはわかります。だから、生きてます。

 

 みんな難しく考えすぎなんじゃないでしょうか。

 考えてもわからないことを考えて疲れちゃうくらいなら、考えない、っていう選択をすることもアリなんじゃないでしょうか。

 それは「逃げ」でも「甘え」でもなく、一つの「選択」に過ぎません。

 結局のところ、自分にやさしくいられるのは自分だけです。なら、誰よりも自分にやさしい自分でいましょうよ。叱咤激励は他人にしてもらえばいい。なんなら、望んでないのにしてくるでしょう?

 人に迷惑かけないなら、何をしてもいいと思いますよ、私は。だから、まろやかに生きていきましょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とかいっても結局、自分に厳しい人は自分を責めるんでしょうね。あゝ無力。

#TaToo

 

 3/6はヨシモト生誕祭!ヨシモトです。

 

 最近、巷では #KuToo という動きが見られるようになりましたね。苦痛と靴をかけた表現で、女性のパンプス強制に疑問を呈するSNS上の運動。

 外見における非合理的な制限に、最近になってようやく批判の声が出てきました。いや、多分もともと出てきてはいて、SNSが浸透したことでその声が表面化した、ってだけだとは思うんですよ。

 

 一億総評論家時代とはよく言ったもので、意見を世界に発信すること自体は容易になりました。でもそのぶん批判もしやすくなって。傷ついていた人々が声をあげた結果、無意識のうちに傷つけていた人々の意識改革に繋がった。そして、想像力の足りない加害者、ひいては「強い」被害者は、声をあげることそのものに対してバッシングする。

 

 構造が複雑になってるんですよね。もはや二項対立の問題じゃない。最近はやりのビジネス本『FACTFULNESS』にもそんなことが書かれていたような、書かれていなかったような。二項対立で人は物事を捉えたがる……的な。入試現代文にもその原因の一端はあるような気がするなぁ、とも思いつつ。論理展開が楽なんですよね、二項対立だと。

 

 自分が一番不可解だと思ってるのはタトゥーですね。日本のタトゥーに対する偏見やばくないですか? 「温泉入っちゃダメ」ってそれもう完全にアウトでしょ。平等どこいった。「刺青=罪人」という過去の構図をそのまま引きずってるのか、それとも「刺青=暴力団関係者=あまり入れたくない」的な発想? 何はともあれ、論理の飛躍は否めない気が。

 

 自分自身タトゥーを入れたいし、ピアスだってバチボコ開けたいんですけど、温泉好きだから入れられないし、耳だって古い価値観の親からめちゃめちゃ反対される始末。TBSのクレイジージャーニーとかでは、ボディハッキングをクレイジーと評しているわけですから、うーん。結局何も変わってないじゃん。つまんない。

 

 文化先進国なんてどこ吹く風。GGGIも110位だし、日本がどんどん出遅れててあたし寂しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人の価値観を変えられるアセットを持った企業に就職したいですね。

 

 

下等な身の上話

 

 自分の凡人っぷりに悲しくなる時があります、ヨシモトです。

 

 身の上話、っていうからには服の話でもすればいいのでしょうか。とか思ったんですけど、まあそんな小粋なジョークの気分ではなく。

 

 3/1から就活が解禁されました。いやベンチャーもっと早くやっとるやん。なんならもう祈られ済みだわ。

 自分は就職支援?的な企業で長らくインターンをしているのですが、いざ自分が就活するとなると辛いものがありますね。食い扶持がかかってる感じ。プレッシャーですわ。

 やってること自体は楽しいんですけどね。世の中の仕組みとか、自分の信念とか、向き不向きがわかっていくことは気持ちがいいもんです。

 

 多分、就活において「譲れないもの」って各々あると思うんですよ。「アナウンサー」といった職種的なものであったり、「福利厚生」といった生活スタイルの類であったり。

 それでいうと、私は「高収入」が何よりも優先事項です。シングルマザー家庭だと、やっぱり金に困った思い出がたくさんあるんですよね。嫌な思い出。

 その嫌な思い出を振り払うかのように、今日もノートに色々書きなぐっては「あーだめだなー」とか言いながら、訪問先の喫煙所でタバコを喫います。英語勉強してれば、外資とかも目指したんですかね。うーん。 

 

 だいたい、人間は何をいちばん恐れている? 新しい一歩、自分自身の新しい言葉、それを一番恐れているじゃないか……

 人間というやつは、いっさいを手中にしているくせに、弱気ひとつがたたって、みすみすそのいっさいを棒にふっているわけなんだ

 

 どちらも、『罪と罰』 のラスコーリニコフの言葉ですね。あれ、ラスコリニーコフ?わかんなくなっちゃった。

 今になって、「どうして自分はもっと色んなことをやっておかなかったのだろう」という後悔が後を絶ちません。嫌な思い出や後悔は簡単に頭を支配するのに、幸せの効果は一瞬ですよね。

 

 学生という立場を活かして、もっといろんな世界に飛び込んでおけばよかった。凡人であるからこそ、多くを学ばなければいけなかったはずなのに、凡人であることを痛感するのが怖くて、動けなかった。つくづく自分はザコです。恥の多い人生。弱気と短気は損気。

 こんな一丁前に反省しておきながら、多分今日家に帰ったらラジオを聴いて時間を溶かすんです。反省するだけなら誰にでもできる、謝るだけなら猿にでもできる。

 全てを65点くらいのクオリティでこなせる器用な凡人が、なんの努力もしなかった結果が、このザマです。嫌になるなぁ。

 

 なんて。自分が身命を賭してやりたいことなんて、自己弁護くらいなのかもしれませんね。人間と触れ合える仕事ならなんでもいいのかもなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あーあ、買ってない宝くじ当たらないかなぁ。シュレディンガーの宝くじ。

昼ごはんを食べるということ feat.生の自己決定権

 

 最近原因不明の脇腹の痛みに悩んでいます、ヨシモトです。

 

 お腹痛いと、食事に集中できないから嫌なんですよね。特定の趣味がない自分にとって、食事くらいしか楽しみはなくて。

 作家の伊藤比呂美さんは、「自分の生き方を自分で決めることが難しいなら、まずはその日の昼に何を食べたいか考え、何を食べるか決める。そこから始めるといい」的なことを講義でおっしゃっていました。

 

 思えば、自分の生き方に悩んだことはあまりないんですよね。なりたい自分を考えて、必要なノルマを自分に課して、クリアしていく。このシステムであれば。他人を巻き込まず自分が痛い目を見るだけという構造が保たれています(成功率が低いくせに)。

 それを当然のように出来ていたのは、昼に何を食べるか毎日決めていたからかもしれませんね。今も渋谷の道玄坂で日々ランチを開拓しています。

 

f:id:chainsaw828:20190227221348j:image

 

 今日も今日とて飯がうまかった。

 

 あと最近花粉マジでやばくないすか?

 花粉に目をやられるのが嫌で、電車では目をつぶるようにしています。すると、爆睡して寝過ごしちゃうんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事だけじゃなくて睡眠も自己決定したいですね。