令和、内定はありません。

 令和も絶好調。ヨシモトです。

 ゼミ論を書いていたつもりが、セルフハンディキャッピングでしょうか、文章を書きたくなってしまいました。

 今回は〆のアレがありません。改行たくさんして最後に一言添えるやつ。ていうか「令和、内定ねーわ。」とかにしたほうがよかったな。

 

 

 私は閉じ込められている。

 どこに、と訊かれても答えるすべはなく、「どこかに」と答えること以外叶わない。暗く、床も見えず、壁も見えない。さらにいうと、自分の手も、足も、見えない。

 きっと、自分は体育座りをしている。固い床に座り、体育座りをしている。しかし、確認しようにも何も見えないのだから仕方ない。自分の体感を信じるしかないし、ここまで自分の知覚が心許ないとは考えたこともなかった。

 床は、コンクリートだろうか。冷たく、硬く、ざらざらとしているが、気泡の断面のようなものを指先に感じる。ミリ単位の段差を、今は信じてみる。

 どうしてここまで落ち着いていられるのだろう。

 見知らぬ場所、見知らぬ状況。にも関わらず、不思議と落ち着いている自分がいる。無駄な感覚が全て遮断されると、こういった感情になるのだろうか。

 自分の現状を知るためには自分の知覚を介する必要があるのだが、それが叶わないとなると、もはやどうしようもない。全くふさがっていないが、八方塞がりである。

 ここはどれくらい広い空間なのだろう。圧迫感は感じない。無限に広がっているようにも思えるし、実は体育館倉庫ぐらいの狭さかもしれない。光がまったくない以上、密室のはずだが、空気は澄んでいるのだろうか、じめじめしていなければ、乾燥しているわけでもなく、推理の材料は一切ない。

 匂いもない。音もない。触覚は、床に触れていることだけは確かである。

 尻と床の境だけが、触覚を通じて感じられる。自己の境界として唯一わかるのはそこまでで、考えてみるとこの空間でどこまでが自分なのかわからない。自分の像を想定することはできるのだが、ここにきた経緯がわからないとなると、その記憶すら疑わしい。

 「すら」と表現してみたが、五感のほとんどが機能していない中で何を信じていいのかわからない。「我考える、故に我あり」など所詮気休めにすぎず、物理的な自他の境界がわからない中で、果たしてどこまでが自分の意識が及んでいる範囲なのかわからないとなると、「我あり」と言うことすらままならない。

 ようやく不安が顔を出す。この状況はいつまで続くのだろう。

 空腹ではない。喉も渇いていない。しばらくは大丈夫そうだ。

 しばらくは、とは言いながら、私はいつからここにいるのかもわからない。仮に三日間ここにいたとしよう。その場合、何も摂取しないことは危険ではなかろうか。

 だが、現に私の身体に不都合は生じていない。ということは、問題はない。

 空腹、喉の渇き。これらも身体に基づいている。お腹が痛くなった時、ギュルリと鳴いた時、自分は空腹だと実感する。喉に違和感を覚えた時、クッと痛みを感じた時、水分を欲する。

 もしや、これらも思い込みだったのではなかろうか。「空腹とは〜」「喉の渇きとは〜」と定義されたものに自身の状況を当てはめているだけだったのではないだろうか。

 事実、私は自分の状況を判断できない。きわめてニュートラルな状況だからだ。

 思うことをやめよう。一度、私の電源を切ろう。