リリーのすべて

 お久しブリーフ。ヨシモトでござる。

 

 昨日、『リリーのすべて』を観てきました。「は? 今更?」と思ったそこの貴方!

 私もそう思います。

 本当は普通に映画館で上映している間に観たかったのですが、色々な予定がその時期には詰まっており、観に行くことができませんでした。

 しかし、つい数日前から早稲田松竹で上映されているという情報を聞きつけ、よっしゃ!ちょうど早稲田松竹に行く用事もあったしちょうどいいや!と観ることを決意。ダイナミック公私混同。

 

 …………いや〜〜〜良い映画だ。

 内容より、まず特筆すべきは主演エディ・レッドメインの演技力。「自分の中にリリーがいる」とわかってからの、主人公の一挙手一投足が、「女性」なんですよね。例えばそれはしなやかな腕の動きであったり、艶やかな表情であったり。単なる言動とは異なる、佇まいや所作。それであそこまで繊細な主人公の性を表現するなんて……いやはや、恐ろしい限りです。俳優さんしゅごひ。。。

 

 内容で気になったのは、二つ。一つは、主人公は「男性として」「男性に愛される」ことに嫌悪感を抱いた点。「男性に愛される」ことを求めていた主人公でしたが、あくまでそれは「リリーとして」愛されなければ意味がない。ホモセクシャルの男性に、「ヴェイナーとして」愛されることは、拒んだのです。

 不思議ですよね。いや、アイデンティティ性自認を考えたらこれは当然だと思います。自分はリリーなのだ、女性なのだ。ならば「男性として」愛されることはおかしい。納得がいかない……当然のことです。が、自分に好意を抱いてくれている相手が、自分をどのように見ているかなど、基本的にはわかりません。この作中では、相手の男性が「ヴェイナー……」と囁いたことで、主人公は自分が「男性として」愛されていることに気づきます。しかし例えば、そのセリフがなかったとしたら。主人公は、その愛を受け入れてしまっていたのではないでしょうか。相手が自分を「男」として見ているのか、それとも「女」としてみているのか、わからないのだから。

 あくまで私たちが「見て」わかることは、「愛されている」という事実のみ(なんならそれすらわからないこともありますが)。でも、見てわからないことに縛られ、踊らされるのが人間です。人間は阿呆ですからね。踊らにゃ損損ってやつです。

 

 もう一つ気になったこと。それは、主人公が「間違っているのは心ではなく身体である」という結論にたどり着けたこと。今でこそ、(あえてこの言い方をしますが)性適合手術なるものが、存在しますが、かつてはビョーキ扱いされた性自認と身体のズレ。にもかかわらず、主人公は身体が間違っている、自分の中に、確かにリリーがいる、と言い切りました。そしてヴェイナーの妻は、夫は女性であり病気ではないのだ、と医者に対し断言し、一歩も引きませんでした。

 何が怖いって、これは今でこそ美談として語られるのでしょうが、当時は「妄言を吐き続ける夫」と「その妄言を信じる妻」としか見られなかったんでしょうね。性に対する認識の不安定さ……というよりも、社会における「認識」の流動性を改めて痛感した次第です。こわこわ。

 いや、ほんといい映画見たなって感じです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レポートもこれくらい筆が進めばなぁ〜〜〜