夜と霧と僕

 

 webライターやってていつも思うのが、タイピングうるさいんですよね、自分。親の仇のようにキーボードを叩くと言われたことがあります、どうもヨシモトです。

 

 吉行淳之介の『すれすれ』を2019年1冊めの本にした、といいましたが、まさかの『夜と霧』を先に読み終わるとは。2週目だったからですかね。

 

 『夜と霧』は高校1年生の頃に読んで「ほぇ〜」って思って放置してました。今読み直すと、やっぱ面白いっすね。

 自分がふと気になったのは、「愛」についての記述です。かなり短い章一つ。全体の内容とは関係ない、とか言われたらそれまでなんですけど、でも気になった。

 

 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家が、その生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。(『夜と霧』V.E.フランクル著, 池田香代子訳, みすず書房)

 

 フランクルは、収容所の中で「愛」というものを人間の本質だと発見します。ていうか理解します。

 日本の愛の歴史について学ぶとよく出てくるのが「恋愛は輸入された概念だ」という言説。日本では文化人が自著などで紹介していたものの、一般人にとっては馴染みのないものであった。結婚と恋愛だって、必ず結びついていたわけではなかった。それがいつしか、ロマンティック・ラブ・イデオロギーによって一気通貫、となったわけです。

 ……とはいえ、「恋愛」と「結婚」が結びつけられたのが明治期であって、恋愛のような感情自体は平安の和歌にも見られますよね。当時はモノガミー的な考え方はそこまで求められてなかったように見えますが。ちなみに、モノガミーは構築されたものとしか思っていないです。1人「を愛する」と1人「しか愛してはいけない」を同一視してはいけない。ここの転換点についてはまだお勉強が足りてません、ごめんちゃい。いつ変わったんやこれ。

 

ああ、話戻します。日本に概念としての「恋愛」が存在しなかったっていうのは事実だと思うんですけど、どこまでを構築されたものとしてみなしていいのかは疑問。

 ただ、仮に恋愛というものが日本においては後から作られた概念だとして、そこまで構築主義の前提に立つと、少し悲しいかな、なんて思うんですよね。だって、今誰かのことを好きだという感情も、社会によって構築された恋愛概念があったから、って言われちゃうと……辛くないですか?

 感情が先んじててほしいなぁ、と、これはいち人間としての希望的観測です。

 

 あと、これは私が不勉強なだけなのですが、西洋では恋愛というものは自明なのでしょうか。

 キリスト教がそもそも恋愛を卑俗なものとして扱いアガペーを称揚したということは、かなり早い段階から恋愛概念は存在したっぽいですよね。あるグループには自明に存在する感情そのものが私たちに存在しなかった……というのはなんだかモヤモヤしてしまいます。

 

 やっぱ、「恋愛概念」はなくても「恋愛感情」はあった、という捉え方でいくのが丸いですかね。うーん、概念がなくて感情だけある……ってのも変な話だなぁ。

 話が右往左往。いつでもどこでも平常運転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次は何読もっかな!