938円

 

 レポート地獄!ヨシモトです。

 

 バイトからのこのこ帰っている途中、Suicaを落としてしまいました。前を歩いていた人が拾ってくれて改札を無事に通過できたわけですが、前の人の残高も、僕の残高も、938円でした。いやーん運命。

 

 すごくないですか? 2万円チャージできる電子マネーで、偶然その人と僕は938円だけ残っていたわけです。もし違う額をチャージしていたら、もし違う物を買っていたら、もし違う場所に行っていたら……この一致は起こらなかったわけです。

 

 そう考えると、世の中って面白いですよね。もしあのとき○○していたら……と考えたらきりがない。ifの世界はあくまでif。だからこそ、逃げずに「今」と向き合う必要があるわけですね。いくら願っても、ifの世界にはいけない。でも、もし「今」と向き合えば、ifの世界に飛ぶことはできないけれど、そもそもifをitに出来るかもしれない。超うまいこと言った感じ出てません? ちょっと何言ってるか僕はわからないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、Googleで"938円"と検索したら「旅する!ゴロゴロフルーツキューブ」がトップに出てきました。勝手に旅していてくれ。

浅野いにおの世界がある私の世界

 

 成人の日、みなさんはいかがお過ごしでしたか。起きたら16:00だった成人式当日を思い出し、思わず失笑。ヨシモトです。

 

f:id:chainsaw828:20190114214842j:image

 

  池袋で開かれていた「浅野いにおの世界展」に行ってきました。『おやすみプンプン』や『虹ヶ原ホログラフ』など、リアルかつある意味厭世的に人間を描いた名作を数多く世に出してきた浅野いにおさん。

 

 数ある彼の作品で自分が1番好きなのは、『うみべの女の子』です。あれを超える漫画を見たことがない。

 「関係」のもろさ、感情の絶対性と流動性。諸刃の剣を握りしめるような痛々しさすら覚える心のふれあいは、どこか哀しく、しかし力強い。若さゆえの「安定した不安定」をあれほど描けるなんて、本当にバケモノだと思っています。今度、真剣にレビュー書いてみようかしら。

 

 浅野いにおさんの作品に初めて触れたのは、中学3年生の時だったように記憶しています。『おやすみプンプン』。衝撃でした、怖くて、気持ち悪くて、でも目が離せなくて。急いで連載に追いつきました。最終巻だけリアルタイムで買えたのかな、確か。

 世界における救いのなさを、バチコリ見せられた気がしました。「あぁ、そりゃそうだよな」って。赦されると思うなよ、って。だからラストはどう捉えようって感じなんですけどね、プンプン救われてね?みたいな。愛子ちゃんを失った先の、「受け入れてくれる人がいる」という事実をどう捉えるかって話。

 いややっぱ今度真剣にレビュー書こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はーーーーーーーーーーー買いたかったグッズ売り切れてたよちくしょう!!!!!!!!!!!

涙に色があれば

 

 丸一日休みってのが久々過ぎて調子狂いますね。ヨシモトです。

 

 涙に色があったらなぁ、って思いませんか?

 人間の体液、基本透明でつまらないんですよね。たまに赤はありますけど。

 

 涙ってすごく綺麗だと思うんですよ。「感情の結晶」じゃないですか。苦しいとき、悲しいとき、悔しいとき、嬉しいとき。拳を握りしめ、太腿を叩きながら流す涙もあれば、拳を握りしめ、苦しかった日々を思いながら流す涙もある。全部透明。手を叩いて笑いながら流す涙も透明。なんか変じゃないですか?

 

 黒い涙を流したいなあってすごく思うんですよね。墨汁みたいに、マットな黒。

 

 ああ、親不知を抜かれました。根っこが三又で、ひん曲がっていました。1分で引っこ抜いた代物とは当然思えず。前歯の歯槽膿漏疑惑を解消しに行くはずが、なぜこんなことに。辛いもの食べられない。ずきずき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば、初めて書いた小説のタイトル、『親不知』だったなぁ。

読書量を増やすための論理的考察(頓挫)

 

 本読みたい!ヨシモトです。

 

 論理的思考が下手すぎるので、そのトレーニングついでに、その願望を叶えるための計画を立ててみることに。

 スタートは、現在の自分。そしてゴールは、年90冊本を読むこととします。年90冊といいますが、期間を2019年12月31日までだと仮定して、年90冊ということは、月に7〜8冊読む必要がある。今読み終わっているのは1冊。爆笑。

 『夜と霧』1冊読み終わるのに4日かかったことを考えると、150ページの単行本に4日。そのペースを維持した場合、新書はどれも約3日?文庫本はページがバラつくからわからん。

 ただ、このペースの場合、新書のみでも月に10冊が限度。厚めの単行本や文庫本が入ってくると、そのペースは月6冊が限度な気がする。

 

 あれ?遅くね?無理じゃね?

 

 そうなってくると今度は、読書のスピードを上げる方法を考える必要が出てくる。どうやったら本読む速度上がるんだろう。精読でなければ、もっと速く読めるだろうか。いや、精読がしたい。

 じゃあ、可処分所得ならぬ可処分時間を増やす必要がある。とはいえ、やらなきゃいけないこと以外はあまりやっていない。無駄なことに時間を費やしている、というわけではない。となると、やらなきゃいけないこと以外のスキマ時間を今よりも有効に活用する必要が出てくる。有効も何も、今どう使ってるんだろう、スキマ時間。7割スマホ、3割読書って感じか。

 ってことは、それを4割スマホ、6割読書にするだけで、ペースは上がりそう。いったんそれでやってみるか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とか言いながらスマホいじってブログを更新しています。

ストレス

 

 ほろ酔い。ヨシモトです。

 

 昔から感受性が豊かとは言われていたのですが、人の感情を察知しやすいっていうのが自分の個性なのかな、と思っています。

 わかる。わかってしまう。わかるからこそ、怖い。なんでこの人はこの感情なのにこの行動をするんだろう、みたいな。

 きっと、わかったつもりになっているだけだとは思うんです。でも、思い込みだとかいう以前に、肌が、相手と同化する感覚があるんですよね。受信!ピリッ!みたいな感じ。

 いちいち共感するの、疲れちゃうんですよね。したくないのに、勝手に相手と感情がすりあわされる。すりあわされ、ふりまわされ。これを何かに活かせないでしょうか。そんなこと言ってたら、臨床心理学の勉強したくなってきましたね。心理学マジで向いてないけど。

 

 私は、心も体も美しくなりたいんですよ。体で言えば、ハイヒールの似合う人間になりたいんです。黒のピンヒールを履きたい。永久脱毛したいし、整形したいし、脂肪吸引して骨と皮だけになりたい。やりたいことが、カスタマイズしたい部分が、たくさん。だから高給取りになりたいって野望があるんです。

 でも、いくら金かけても心はどうにもならないですね。あなたの優しさは人工的だ、みたいなことを友人に言われて、とても辛かった。先天的に優しい人間ならどんなに良かったか。優しくない人間は、優しいふりをするしかないんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 就活したくねえ……

夜と霧と僕

 

 webライターやってていつも思うのが、タイピングうるさいんですよね、自分。親の仇のようにキーボードを叩くと言われたことがあります、どうもヨシモトです。

 

 吉行淳之介の『すれすれ』を2019年1冊めの本にした、といいましたが、まさかの『夜と霧』を先に読み終わるとは。2週目だったからですかね。

 

 『夜と霧』は高校1年生の頃に読んで「ほぇ〜」って思って放置してました。今読み直すと、やっぱ面白いっすね。

 自分がふと気になったのは、「愛」についての記述です。かなり短い章一つ。全体の内容とは関係ない、とか言われたらそれまでなんですけど、でも気になった。

 

 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家が、その生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。(『夜と霧』V.E.フランクル著, 池田香代子訳, みすず書房)

 

 フランクルは、収容所の中で「愛」というものを人間の本質だと発見します。ていうか理解します。

 日本の愛の歴史について学ぶとよく出てくるのが「恋愛は輸入された概念だ」という言説。日本では文化人が自著などで紹介していたものの、一般人にとっては馴染みのないものであった。結婚と恋愛だって、必ず結びついていたわけではなかった。それがいつしか、ロマンティック・ラブ・イデオロギーによって一気通貫、となったわけです。

 ……とはいえ、「恋愛」と「結婚」が結びつけられたのが明治期であって、恋愛のような感情自体は平安の和歌にも見られますよね。当時はモノガミー的な考え方はそこまで求められてなかったように見えますが。ちなみに、モノガミーは構築されたものとしか思っていないです。1人「を愛する」と1人「しか愛してはいけない」を同一視してはいけない。ここの転換点についてはまだお勉強が足りてません、ごめんちゃい。いつ変わったんやこれ。

 

ああ、話戻します。日本に概念としての「恋愛」が存在しなかったっていうのは事実だと思うんですけど、どこまでを構築されたものとしてみなしていいのかは疑問。

 ただ、仮に恋愛というものが日本においては後から作られた概念だとして、そこまで構築主義の前提に立つと、少し悲しいかな、なんて思うんですよね。だって、今誰かのことを好きだという感情も、社会によって構築された恋愛概念があったから、って言われちゃうと……辛くないですか?

 感情が先んじててほしいなぁ、と、これはいち人間としての希望的観測です。

 

 あと、これは私が不勉強なだけなのですが、西洋では恋愛というものは自明なのでしょうか。

 キリスト教がそもそも恋愛を卑俗なものとして扱いアガペーを称揚したということは、かなり早い段階から恋愛概念は存在したっぽいですよね。あるグループには自明に存在する感情そのものが私たちに存在しなかった……というのはなんだかモヤモヤしてしまいます。

 

 やっぱ、「恋愛概念」はなくても「恋愛感情」はあった、という捉え方でいくのが丸いですかね。うーん、概念がなくて感情だけある……ってのも変な話だなぁ。

 話が右往左往。いつでもどこでも平常運転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次は何読もっかな!

SEO対策なんて

 

 ウイスキーの瓶あけて泥酔してます、ヨシモトです。うぃっ。

 

 SEO対策として文字数を増やせとか言いますけど、あれって本当に効果あるんですかね。むしろ不必要に文字が多いと邪魔なのかなあとか思ったり。Webライターをやってるくせに、そうとは思わせないブログでしょ? これ、ほんとに備忘録。ライティングはもう少し理路整然としてますとも。

 

 会話も、もっと理路整然としたいもんです。インターンの時に、コンサルタントをやっている同年代の方から、「りっきーは論理→結論って喋り方をするけど、結論を先に言った方が効果的な場合もある」と言われたことを、今ふと思いました。あの人、WANIMAのボーカルみたいでかっこよかったなぁ。

 

 でも、ライターとして暮らせたら、それ以上の幸せはないですね。好きなことたくさん勉強して、たくさんアウトプットして……うぅ、夢は早期退職と院進。もしくは院に行く補助をしてくれる会社に就職すること。ていうか金くれ。就活したくない。むり。公認心理師、なんで院出てないとなれないんだ??わけわからん。金貯めて産業カウンセラーだな。あと脂肪吸引

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あと、これはライフハックなんですけど、「シチューonライス」はマカロニにかけると美味しいです。この時間に食べてるからかな。