涙に色があれば

 

 丸一日休みってのが久々過ぎて調子狂いますね。ヨシモトです。

 

 涙に色があったらなぁ、って思いませんか?

 人間の体液、基本透明でつまらないんですよね。たまに赤はありますけど。

 

 涙ってすごく綺麗だと思うんですよ。「感情の結晶」じゃないですか。苦しいとき、悲しいとき、悔しいとき、嬉しいとき。拳を握りしめ、太腿を叩きながら流す涙もあれば、拳を握りしめ、苦しかった日々を思いながら流す涙もある。全部透明。手を叩いて笑いながら流す涙も透明。なんか変じゃないですか?

 

 黒い涙を流したいなあってすごく思うんですよね。墨汁みたいに、マットな黒。

 

 ああ、親不知を抜かれました。根っこが三又で、ひん曲がっていました。1分で引っこ抜いた代物とは当然思えず。前歯の歯槽膿漏疑惑を解消しに行くはずが、なぜこんなことに。辛いもの食べられない。ずきずき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そういえば、初めて書いた小説のタイトル、『親不知』だったなぁ。

読書量を増やすための論理的考察(頓挫)

 

 本読みたい!ヨシモトです。

 

 論理的思考が下手すぎるので、そのトレーニングついでに、その願望を叶えるための計画を立ててみることに。

 スタートは、現在の自分。そしてゴールは、年90冊本を読むこととします。年90冊といいますが、期間を2019年12月31日までだと仮定して、年90冊ということは、月に7〜8冊読む必要がある。今読み終わっているのは1冊。爆笑。

 『夜と霧』1冊読み終わるのに4日かかったことを考えると、150ページの単行本に4日。そのペースを維持した場合、新書はどれも約3日?文庫本はページがバラつくからわからん。

 ただ、このペースの場合、新書のみでも月に10冊が限度。厚めの単行本や文庫本が入ってくると、そのペースは月6冊が限度な気がする。

 

 あれ?遅くね?無理じゃね?

 

 そうなってくると今度は、読書のスピードを上げる方法を考える必要が出てくる。どうやったら本読む速度上がるんだろう。精読でなければ、もっと速く読めるだろうか。いや、精読がしたい。

 じゃあ、可処分所得ならぬ可処分時間を増やす必要がある。とはいえ、やらなきゃいけないこと以外はあまりやっていない。無駄なことに時間を費やしている、というわけではない。となると、やらなきゃいけないこと以外のスキマ時間を今よりも有効に活用する必要が出てくる。有効も何も、今どう使ってるんだろう、スキマ時間。7割スマホ、3割読書って感じか。

 ってことは、それを4割スマホ、6割読書にするだけで、ペースは上がりそう。いったんそれでやってみるか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とか言いながらスマホいじってブログを更新しています。

ストレス

 

 ほろ酔い。ヨシモトです。

 

 昔から感受性が豊かとは言われていたのですが、人の感情を察知しやすいっていうのが自分の個性なのかな、と思っています。

 わかる。わかってしまう。わかるからこそ、怖い。なんでこの人はこの感情なのにこの行動をするんだろう、みたいな。

 きっと、わかったつもりになっているだけだとは思うんです。でも、思い込みだとかいう以前に、肌が、相手と同化する感覚があるんですよね。受信!ピリッ!みたいな感じ。

 いちいち共感するの、疲れちゃうんですよね。したくないのに、勝手に相手と感情がすりあわされる。すりあわされ、ふりまわされ。これを何かに活かせないでしょうか。そんなこと言ってたら、臨床心理学の勉強したくなってきましたね。心理学マジで向いてないけど。

 

 私は、心も体も美しくなりたいんですよ。体で言えば、ハイヒールの似合う人間になりたいんです。黒のピンヒールを履きたい。永久脱毛したいし、整形したいし、脂肪吸引して骨と皮だけになりたい。やりたいことが、カスタマイズしたい部分が、たくさん。だから高給取りになりたいって野望があるんです。

 でも、いくら金かけても心はどうにもならないですね。あなたの優しさは人工的だ、みたいなことを友人に言われて、とても辛かった。先天的に優しい人間ならどんなに良かったか。優しくない人間は、優しいふりをするしかないんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 就活したくねえ……

夜と霧と僕

 

 webライターやってていつも思うのが、タイピングうるさいんですよね、自分。親の仇のようにキーボードを叩くと言われたことがあります、どうもヨシモトです。

 

 吉行淳之介の『すれすれ』を2019年1冊めの本にした、といいましたが、まさかの『夜と霧』を先に読み終わるとは。2週目だったからですかね。

 

 『夜と霧』は高校1年生の頃に読んで「ほぇ〜」って思って放置してました。今読み直すと、やっぱ面白いっすね。

 自分がふと気になったのは、「愛」についての記述です。かなり短い章一つ。全体の内容とは関係ない、とか言われたらそれまでなんですけど、でも気になった。

 

 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家が、その生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。(『夜と霧』V.E.フランクル著, 池田香代子訳, みすず書房)

 

 フランクルは、収容所の中で「愛」というものを人間の本質だと発見します。ていうか理解します。

 日本の愛の歴史について学ぶとよく出てくるのが「恋愛は輸入された概念だ」という言説。日本では文化人が自著などで紹介していたものの、一般人にとっては馴染みのないものであった。結婚と恋愛だって、必ず結びついていたわけではなかった。それがいつしか、ロマンティック・ラブ・イデオロギーによって一気通貫、となったわけです。

 ……とはいえ、「恋愛」と「結婚」が結びつけられたのが明治期であって、恋愛のような感情自体は平安の和歌にも見られますよね。当時はモノガミー的な考え方はそこまで求められてなかったように見えますが。ちなみに、モノガミーは構築されたものとしか思っていないです。1人「を愛する」と1人「しか愛してはいけない」を同一視してはいけない。ここの転換点についてはまだお勉強が足りてません、ごめんちゃい。いつ変わったんやこれ。

 

ああ、話戻します。日本に概念としての「恋愛」が存在しなかったっていうのは事実だと思うんですけど、どこまでを構築されたものとしてみなしていいのかは疑問。

 ただ、仮に恋愛というものが日本においては後から作られた概念だとして、そこまで構築主義の前提に立つと、少し悲しいかな、なんて思うんですよね。だって、今誰かのことを好きだという感情も、社会によって構築された恋愛概念があったから、って言われちゃうと……辛くないですか?

 感情が先んじててほしいなぁ、と、これはいち人間としての希望的観測です。

 

 あと、これは私が不勉強なだけなのですが、西洋では恋愛というものは自明なのでしょうか。

 キリスト教がそもそも恋愛を卑俗なものとして扱いアガペーを称揚したということは、かなり早い段階から恋愛概念は存在したっぽいですよね。あるグループには自明に存在する感情そのものが私たちに存在しなかった……というのはなんだかモヤモヤしてしまいます。

 

 やっぱ、「恋愛概念」はなくても「恋愛感情」はあった、という捉え方でいくのが丸いですかね。うーん、概念がなくて感情だけある……ってのも変な話だなぁ。

 話が右往左往。いつでもどこでも平常運転。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次は何読もっかな!

SEO対策なんて

 

 ウイスキーの瓶あけて泥酔してます、ヨシモトです。うぃっ。

 

 SEO対策として文字数を増やせとか言いますけど、あれって本当に効果あるんですかね。むしろ不必要に文字が多いと邪魔なのかなあとか思ったり。Webライターをやってるくせに、そうとは思わせないブログでしょ? これ、ほんとに備忘録。ライティングはもう少し理路整然としてますとも。

 

 会話も、もっと理路整然としたいもんです。インターンの時に、コンサルタントをやっている同年代の方から、「りっきーは論理→結論って喋り方をするけど、結論を先に言った方が効果的な場合もある」と言われたことを、今ふと思いました。あの人、WANIMAのボーカルみたいでかっこよかったなぁ。

 

 でも、ライターとして暮らせたら、それ以上の幸せはないですね。好きなことたくさん勉強して、たくさんアウトプットして……うぅ、夢は早期退職と院進。もしくは院に行く補助をしてくれる会社に就職すること。ていうか金くれ。就活したくない。むり。公認心理師、なんで院出てないとなれないんだ??わけわからん。金貯めて産業カウンセラーだな。あと脂肪吸引

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あと、これはライフハックなんですけど、「シチューonライス」はマカロニにかけると美味しいです。この時間に食べてるからかな。

夢もねえ!退路もねえ!視界はいつでもぐーるぐる!

 

 金があったら院進したかったでおなじみ、ヨシモトです。

 

 本当に学がなくて嫌になる今日この頃。「○○が〜と言っていた」みたいなことをすぐ言える人に対する憧れで、気が狂いそうになる。

 いくら自分にとって「革新的な意見」を言えたところで、それが既存の議論であったらなんも意味がないわけです。たしかに、過去のえらーい人と同じ思考プロセスを辿れるならそれはとても誇るべきことかもしれませんが、議論を知っている人にしてみれば、そこに目新しさなんてないわけで。いい勉強法を知りたいもんだ。

 

 退屈させたくないですね、周りの人間を!

 自分が自分でいることで誰かを幸せにできるなら、それが一番だと思うし、そんな自分をプロデュースしていくことが今後の課題かなって。

 

 2018年は自分がどんな人間かを知るために東奔西走したわけですが、2019年は前に向かって真っ直ぐ、なりたい自分への最短距離をダッシュしたいです。

 がむしゃらに頑張るのは、すごく美しく尊い営みだとは思うのですが、憧れの像も現在地も知らない段階で必要以上に走りつづけちゃうのは、時間がもったいないような気がしてしまいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いやなりたい自分って何〜〜〜〜〜高給取りになりたい〜〜〜〜〜耳ズタズタになるまでピアスあけたい〜〜〜〜〜〜〜てかなんで皆そんなインターン行ってるの〜〜〜〜〜〜〜俺2社しか行ってないよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

黙るなよ?

 

 やっぱり言葉に触れることが好きだなぁ、としみじみ思うことが増えました。ヨシモトです。

 

 黙ることと、慎重に言葉を選ぶことは違いますよね。沈黙は金、雄弁は銀なんて言いますが、黙るってこと自体はとっても簡単で。

 でも実際みんなが憧れるのは、金銀財宝。金の隙間から銀が覗いてファビュラス!みたいな。

 黙っている人間が、黙ること>喋ることという構図を勝手に作り上げ、発言する人間を馬鹿にする風潮だけは、やっぱり納得いかないなー、なんて、もやもや。「馬鹿がバレる」ことはそんなに怖いだろうか。いや怖いけど。怖いけど、無知のまま死ぬことの方が怖くないですか。そんなことないのかな。結局みんな、「間違える」のが怖いだけなんかな。それってなんだか、手を挙げたがらない小学生みたいですね。もっとボロだそうよ。ボロ出た方が、人間みんな、可愛いよ。

 

 あとバイトで塾講師をやるなら個別指導よりも集団指導がオススメ。これn回言ってる。一人一人のためにカリキュラム組んであげる必要なんてないし、画一的な指導のあとこぼれちゃった部分に関してアフターケアする方が圧倒的に楽。しかも集団の方が給料もいいし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬期講習終わってスッキリ。勤務3年目にして初めて塾長とご飯食べました。にこにこ。